酷いのは記憶の低下。認知症の予兆なのか、もう既にそれなのか?
人の名前はまるっきり覚えないし、思い出せないことも幾ばくか。
名前だけではなく固有名詞や語句がすんなり出てこない。
あんなによく使っていた言葉ですら。
今なんでここまで歩いてきた?何をしようとしたんだっけ、ときょとんとしてしまうことも。
よく転びます。よろけるといったほうがいいのか。
自分では乗り越えてるいると思っているのに、すぐに何かに引っかかったり。
先日リビングの座椅子のアームに引っかかり転倒。反射神経も弱り為すがまま倒れ、テーブルに激突。
幸い当たりどころがよく大事にまでは至りませんでした。もし角などに頭を打ち付けていたら・・
箸もよく落とします。握っているつもりなのに。
喉もよく詰まります。誤嚥の一歩手前。
当然体型も加齢とともに変わり、風呂上がり、鏡に映った自分を見ると首から下胸のあたりは明らかな老人のそれになってきました。
これらは体力の維持を怠っているからこそとは思いますが、そもそもそれをやろうとする気力がなかなか湧かない。
ほんとうにイカンです。
身体や脳の衰えよりも痛感しているのは、ものごとへの順応性の衰え。
新しい情報を受け入れようと努力するも、そもそも狭まったキャパシティがそれを許さず、
そうなるとどうしても情報の津波に背を向けてしまうように。
以前はあんなに情報というものに貪欲だったのに。
とりあえず・・最低限の情報は確保できているので
世間との乖離を起こすなんて言うところにはいないし、
生活ができないとかそんなことではないにしろ、
新しい情報に貪欲というのが「若さ」の証明だったのかと、
今こうなって気が付いたわけです。
一般的な老いだよなぁの最たるものは、昔話に終始する、でしょうか。
良き思い出(語り)、成功体験、染み付いた身体の感覚(視覚、聴覚、味覚)にこだわり、
これらが今の時代感覚にアジャスト出来にくくなっているのがよく分かります。
まだこれらを自覚出来ているのだなら、
もしかしたらまだ本格的な老化ではないのかも知れませんね。
逆に、老いたるからこそもあり、若さ溢れる頃には見えてないものを、今感じることがそれはそれで多々あります。
一つは本質を見抜く力というか、本質に迫りやすくなってきたようには感じます。
以前はどうしても飾りの部分に惑わされることがよくありましたが、
今はもっとシンプルにものごとを見つめることができるようになり、すると不思議なほどど真ん中が見えてくるようになりました。
まだまだではありますが、なんとなく「心眼」が開いてきた感があります。
一方で語彙の忘却が進んでしまっているので、
せっかくのそれを表現する力が衰えてしまっているジレンマにも悩むところではあります。
これ、悔しい。
いわゆる「頑張る」、これは確実に無理が来ていて、ここ数年は明らかに頑張り過ぎました。
もちろん得たものは山のよう多く後悔はないのですが、頑張り過ぎたゆえ身体的、精神的ガタは急速に進んでしまい、今はその折り合いが課題です。
そして病の悩み。
これはやめておきます。詮無いことだし。
誰もが悩み、抱えること。
必ず期限というのは訪れるので、それまで生を全うする、皆同じですから。
このブログを毎日毎日更新していることは、その本来の目的とは別に、
ある意味これら「老化との闘い」です。
ボケ防止でもあるし、継続という力で長く生を受けていることの証しにしている、そんな意味も含まれています。
最初からそういうわけではありませんでしたが。
毎年、自分の誕生日を過ぎると、卒業シーズンとなり、本格的な春を迎えます。
桜の開花も聞こえてきました。
暖かくなればまた新たな力が漲ってくるでしょう。
歳をとると、パワーチャージよりエネルギーチャージをどうするかがセルフコントロールの肝のように感じます。
これもまたどこかで書ければと思っていますが、ふた昔前の40を過ぎる頃、このエネルギーが枯渇してしまい、10年の時間を費やして再構築させました。これは辛かった。
パワーというのはすぐチャージ出来ますが、エネルギーの補給には本当に時間がかかります。
短期的にも長期的にもエネルギーを減らさない、使い切らない、
これだけは今一度気をつけていきたいところです。
だからこそ、出来ることはやるが、出来ないことは諦める、
そうなったうえ、老いてますます、と言われるくらいになっていきたいです。
「さりげない日々につまづいた僕は 星を数える男になったよ」
「流れる星は 今がきれいで ただそれだけに 悲しくて
流れる星は かすかに消える 思い出なんか 残さないで」
結局、ここまで生きてきて、
「僕の欲しかったものは、なんだったんだろう?」