確かに難病ではあるが、つい数日前までは日常の話題にすら上らないことだった。
それが瞬く間に世間を揺るがす騒動にまでなるなんてもちろん思っていなかった。
ニュースやワイドショーで取り上げられている佐藤浩市さんの発言内容、
それを批判した方々の論旨、また擁護した方々の論旨の展開はさまざまのようだ。
私は佐藤さんが安部首相の揶揄をしているとは思えなかったし、ましてや病気を軽視したとは思えないけれど、本人の意図とは別に結果的に配慮を欠いた発言になったということは悔やんでいると思う。
※雑誌インタビューの全文は読みました。
私の子供がその難病であることが判ったのはそんなに遠くのことではなく、検査に検査を長く重ねた中で判明していった。
「難病」という言葉自体のイメージがすでに重い。
今回のいきさつは病気そのもの以上に「難病」という言葉の取り上げ方がキーになっているかもしれない。
難病は「治り難い病気」総称であって、一重に症状の重さを限定的に言っているわけではない。
矢面に立った安倍総理を見れば分かる通り、難病を抱えつつもおそらく日本有数のハードな業務をこなしているわけだから、難病そのものがその人のすべてを奪い取っていない場合もある。
しかし難病というのは持続的に辛い病気で、治り難いからこそ長期であり、一生で向き合わなければならないことは抱える方々にとっての苦難であることも一方では間違いない。
小さい頃からその症状は若干あった。
その頻度が上がり、それは病弱というものではなく、何らかの不具合ではないかと意識し始めたのはここ数年のこと。
病名が確定して、それが安倍総理と同じであることが分かった時、安倍総理のパーソナルな思想とは一切無縁だとして、あの大役を難病を抱えつつこなしている姿はひとつの励みになっている。
活躍の姿をもって難病との具体的な向き合い方を示してくれていた。
どうだろう、ネットを含め騒いでいる人たちは自前の議論の展開の中で、安倍総理を含めたその病気の立場の人を一回場外に追いやってしまっていることに気が付いていないのではないだろうか。
映画でトイレに行くシーンがあっても、それが原作と異なっている設定であったとしても、そのようなシーンを役者として必要にして演じたとしても、それについての議論や批判は、この病気を抱える人や家族の「真の声」とは常に無縁だ。
難病(潰瘍性大腸炎)というキーワードを、それぞれの別の帰結へ持っていく前提材料にしただけではないのか?
右だ左だに、この難病が何のかかわりがあるのか?
この病気について、また難病ということに社会が理解を深めることで起こった騒動であれば家族として意義を感じるが、そんなことを置き去りに、政治色の濃い意図や俳優批判しか残らないのだったらもうやめにしてほしい。
※やっつけの文章で整っていないこと、お許しください。