平成最後の日がやってきました。
春本番、もういくらんなんでもダウンジャケットはクローゼットからは出てこないでしょう。
これはお馴染みのユニクロのライトダウン。
数年前に買ったもの。
特にどこにも不具合がないので普段使いはしないものの、春先までスーツケースの一角などに放り込んで予備のアウターとして使っていました。
ある日、冬の出張先で寒暖差があり少し着て、また暖かくなったので手にもって歩いてたところ、
違う手に持ち替えようとしたときうっかり落としてしまいました。
そして転がしていたスーツケースの下敷きに。
「あ!」と声を出した時にはもう遅く、踏んだ左ひじ近くは少し破けてしまいました。
ダウンはほんの少しでも穴が開けばそこから羽毛が抜け出てしまい、いわばこれはダウンの致命傷。
「もうこのダウンも終わりかな」
そこでふと考えたのはその場での補修。
どうしたかといえば・・・「絆創膏」での繕い。
やってみると元々グレーベージュのダウンだったから、意外や意外肌色の絆創膏が変に馴染んで目立つほどでもなし。
もちろん、そうはいってもよく見ればはっきりわかりますが(笑)
でも、これでいいです。
廃棄はやめました。
「みっともない」という言葉があります。
これは「見とうもない」から派生し、体裁が悪い意味になったようです。
絆創膏のダウンを着るのはどうなんだろう、「みっともない」ことなんだろうか。
私が小さいころ、いわゆる貧乏の部類だったわけで、母が私の服を継いだり接いだりなんて当たり前でした。
子ども心にはそれが「みっともない」と思う気持ちが抑えられなく、本当に恥ずかしい思いをしました。
「いやだよ、こんなの!」
「これで我慢しなさい。まだ使えるから」
「ぜったいにいやだ!みっともないよ」
「・・・・・」
反抗してみたものの、どこか「申し訳ない」という気持ちも心根にもっていました。
休みを取ることもなく、身を粉にして毎日毎日自分の体を犠牲にして働いていた母の姿を見ていたので。
あの「・・・・・」
は何を言いたかったのだろうか。
でも、やはり子どもは子ども。
友達に見られて正直すごく恥ずかしかったし、肩身が狭かったのは事実。
いやだった。。。
もうあれから50年近く。
絆創膏のついたダウンを見て、息子は腹抱えて笑いました。
「なにこれ!みっともないなぁ」
でも私はこう言いました。
「個性的になっただろ」
我が家のことでいえばいま決してお金持ちではないけれど、さすがに貧しくもありません。
新しいライトダウンくらい次のシーズンに買い増しするのも苦になることはないでしょう。
この時代、継ぎやら接ぎやらの服なんかそうお目にかかりません。
随分と世の中は豊かになりました。
けれど、私はこの絆創膏のダウンをそのまま使います。
「・・・・・」
この無言の意味はいまだに正解を知りません。
しかし、絆創膏のダウンは私なりの答えです。
みっともないというのは、他人がどう思うかを気にするあまり、過剰に自己を意識してしまうことに由来するかもしれません。
私が息子に対して「個性的だろ」といったように、
自分の考えや、自分が持つ価値観が本当にみっともなくなければ、周囲を気にせず堂々としていたい、
それが母に対しての答えです。
自分の生き方さえ、みっともないことがなければ。
「令和」を迎える前に、平成すぐに天国へ旅立った母への通信。