現在の涌井がこの場所に移設していたことはずっと前から知ってはいました。
すっかり千葉県民となっていたゆえ、ただただ立ち寄る機会を失っていただけです。
ここになってもうずいぶんになるのでしょう。
東武大師線のほぼ高架下。
西新井駅、大師前駅からかなりあり、やはり周りに何か目的になる場所などないところ。
一時代前には、すぐ近くに一世を風靡した「東京マリン」がありました。
この店として訪れるのはもちろん初めて。
つまりもう20年ぶり近くなわけです。
さすがに以前の店の面影はなく、しかもこの店になってから相当の年月を過ぎているのも分かるくらい時間が過ぎた雰囲気。
そうなんだよなぁ、あたりまえだけど。
私だって十分に老けました。
こちらの主人、つまり涌井さんだってそれ相応なお歳を召すわけで・・・
壁にあるこの雑誌の紹介文かな、この写真こそ私が知っているご主人。
涌井が最初に店を出した場所は現在から数百メートル離れた大師様の裏手。
あれば何年だったか・・
1989年かな。
その時私たち夫婦はまた子供もいなく、夫婦2人でたまたますぐ近くのアパートに住んでいました。
結婚直後はしばらく東村山の久米川に住んでいたのですが、母親が末期ガンと分かったことで実家に近い西新井に舞い戻ったわけです。
はっきり覚えています。開店の日に夫婦二人で訪れたことを。
実を言えば、「涌井」というラーメン店そのものに興味があったわけではありません。
「この場所」で店がオープンしたから、です。
この場所とは・・
私が50年前に暮らしていた場所、
つまり私の実家であった場所です。
隣からのもらい火(原因は寝たばこ)の不幸で全焼してしまいました。
その後借りぐらしを経て隣町の「伊興町」へ引っ越し。
そして時が経ち、四半世紀後、私の家があった場所に出来たラーメン店。
それが「涌井」
その時はなんとも言えない、何故かわからぬ感無量となり、
オープンしたその日の「暖簾潜り」の興奮を今でも覚えています。
香月のラーメンはすでに食べていたので、涌井を始めて食べた時すぐに何かの関係があるのは分かりました。
しかし圧倒的に香月より美味しく、なんと言ったらいいか、もの凄い活力をその一杯から感じたのです。
カウンター越しの真剣勝負。
一生懸命作るものは、一生懸命食べる。
私はラーメンにこの構図を求めます。
その時の涌井はこの気迫に満ちており、こんな場所で営業をする意味に最初は疑問もありましたが、店を出る段に当たって、
「多分、1年後にはここを目指す人で溢れかえるだろう」
そう確信しました。
もちろんその通りになったわけです。
普段私はお店の方とは絶対に話しませんが、この初回だけはお勘定の時「香月のご出身とか?」とだけ聞いてみました。
答えは短く「はい、そうなんです。またよろしくお願いします」です。
決して気難しいとかはなく、かと言って不必要な愛想もなく、しかし全てのオーダーをメモなしで覚え、
お勘定も即時に言い当てる、それは大勝軒山岸さんにも通ずる東京の飲食伝統の「無愛想の愛想」。
初代涌井で覚えたのは「こんぶ」。
わかめはラーメンには基本的に合わないと思っていたことに、この涌井のこんぶが全てを解決してくれました。
ラーメンに合うのはわかめではなく、こんぶなんだと。
味はすぐに蘇ります。
味は蘇りはしたものの、味以上のもので全く違うものがありました。
それは、ご主人との距離。
カウンター越しに1メートルで毎回真剣勝負していたあの感覚が、
遠く眺めるこの数メートルの距離では到底蘇ることがありません。
つまり、この20年の溝はこの日埋めることはできなかったということです。
それでも、涌井のラーメンには変わりありません。
これが今の涌井であることに間違いなく、
だったら客として目の前にある一杯に一生懸命になることだけです。
少し塩気があり、それを和らげる背脂。
美味しい。涌井の味だ。
ただ20年前と変わらないので、他の世のラーメンと時代が大きく変わった中、
もうあの時のような興奮は得られません。
このスープにこの麺。
これは「香月」から変わらないもの。
人は変わるもの。
私も大きく変わり、そして「老い」ました。
店を出て眺めた大師線の高架と月明りに、
なにかふと淋しさを覚えつつ、
しかし、老いることは罪ではなく、
なによりもまず「そこに居ることが大事」、
そんな気持ちになったわけです。