中央線沿線には「中華そば」の名店が多い。これは「武蔵野」という土地柄と無縁ではないと思う。
その中にあって三鷹で名声を得ていた老舗「
中華そば 江ぐち」。残念ながらその歴史は2010年に途絶える。
しかし、その姿を新たなる形で留めたのが「中華そば みたか」。
私が初めて江ぐちを訪れたのは30年くらい前だろうか。学生のころだったはず。ほぼ訪れることがなかった三鷹という駅に降りた時、ものすごく旅気分であったことを今でも覚えている。
まだ江ぐちは老舗という風情ではなく、荻窪の春木屋や丸福などと並び気鋭の東京ラーメンの店だった。
丸福とは対照的な気さくさがあふれ、丼が目の前に運ばれるとき、ちょっとだけ親指がつかるのを見てもちっとも気にならない空気感。
四角く並んだカウンターはさながら移動しない屋台ラーメンに見えたことを思い出す。
それから何度か機会があるごとに足を運ぶことがあったが、足が遠のいてからはすでに閉店していたことなどは知る由もない。
駅から歩いて2分。この角なのは変わらない。当時以上にあまりにもごちゃごちゃしているので初めての人にはどこに店があるのかわからないだろう。
地下街への入り口。
たったこれだけのことに、まるで昭和へのタイムトンネルではないかという興奮を覚える。
入店を待つ人の姿が絶えない。
10分。少し動く。
20分、黙々と待つ人の流れが吸い込まれていく。
回転が速いのでそんなに待ちくたびれる感もないし、なによりも待つ人たちにそれが苦行であるような雰囲気が一切ながれていない。
ここで待つことに疑問を感じる余地がなく、この階段ですらもう店内に居るかの如くの一体感だ。
正方形の、そして低い位置取りのカウンターは「江ぐち」そのまま。
今、このようなステンレスのカウンターは他にはないだろう。
当たり前のようにビールを頼む人が絶えず、カウンターの回転の速い店なのにこの風景があるのもこの店くらいのような気がする。
極めて狭い厨房なのに一切無駄のない配置がなされており、よどみない店主たちのオペレーティングが繰り返させる。
なぜカウンターが低いかといえば、これを見せるためではないかと思ってしまう。
当然丸見えなので誤魔化しは絶対にできない。
いや、店主の笑顔とその作業風景は料金に含まれていると言っていい。
くだらない大声パフォーマンスや、必要と思えない湯切りダンスなどよりずっと「誠実」だ。
そう考えたらこの「450円」という価格は、限りない営業努力といえる。
もっと言えば、絶えることないファンがいるからこそ、みんなで一体化してできる維持価格だろう。
Co-Creating place.
笑顔が絶えない主人もこの一瞬は気が引き締まる。
チャーシューワンタンメン。
なるとの「の」の字がたまらないアクセント。
このチャーシューは「江ぐち」時代とちょっと変えたのではないか。
自分の記憶があいまいなのであまり自信がないが、こちらがバラチャーシューで、江ぐちはモモチャーシューではなかったか。
それはともかく、薄切りながら15枚は入っており、これがなんともうまい。
ワンタンと竹の子。
江ぐち時代と一見変わらぬ少し黒味があるそば。
この地粉はまさに武蔵野うどんとの共通点。荻窪の春木屋もそもそも日本蕎麦の店であったり、煮干しや昆布にしても、中華そば黎明期にはその当時の物資を流用しながら作られているはずなので、それぞれに地域性があって当然。
私のラーメンにおけるプリンシパルは「あとを引くか、引かないか」、この余韻があるかないかだ。
何度も繰り返すが、今の大半のラーメンは美味し「過ぎ」る。
食べ終えたときガツンとくるマックス感がものすごく高いのに、そのあと「また来よう」とあまり思うことがない離脱感との乖離が大きすぎる。食事としての満足度が高くとも、情感による余韻が残らない。
この「みたか」は、お金を支払っている最中に、また席に着いて注文してもしまおうかと思った。
チャーシューワンタンメンというボリュームをこなしているにもかかわらず。
この「あと引き」は決して味だけで起こるものではない。
そこで味わった空気感が大切だ。
大辞林 第三版 よいん【余韻】
①鐘などを鳴らしたとき,音の消えたあとまで残るひびき。余音。 「 -が残る」
②事が終わったあとに残る風情。 「 -を味わう」 「 -にひたる」
③詩文などで言外に感じさせる趣や情緒。余情。 「 -をもたせた表現」
「みたか」の余韻は、店を出て道を歩いていても変わることはない。
まるで、いい映画を観た後のよう。