
もう、何年行っていないだろうか。

家族の成長や人生の転換を経て、それぞれの道標に微妙にズレが生まれて以降もう数年、GWに集まれることはなくなった。

たぶん、何かのきっかけさえあればまた、あの忙しいGWキャンプに間違いなく行くだろう。
そんなことは私たち夫婦も、子供達も、例え数年それが出来ていなかったとしても、微塵も思ったことはない。


忙しい設営もした。
あわただしい食事の用意もした。

キャンプがそうさせたのではなく、キャンプへ家族で出かけたことがそう思わせているだけだ。

両親は一年中働いていて、確か小学4年くらいのたった1日の海水浴の記憶があるだけ。
GWなどというものがあったことすら全く覚えていない。

バーベキューなんていうのはオトナになるまで知らなかった。
「アウトドア」なんて全く知らなかった。

下町の町工場に休みというものなんか存在しないから。

母は20代半ばで亡くし、父親は30代前半のころだった。

5月の4日のこと。

普通なら一周忌なんだろうが、あえて出かけた。

いや、きっと出かけたかったに違いないはずなのにそれができなかっただけのはず。
だからこそ、自分達は今、こうやって家族で出かけることができたよ、それを見せることが弔いだと思った。

兄が「昨日な、血を吐いてな、病院にいるんだ」
私は何も知らずに帰宅した。
得意そうに渡そうと思った初めて買ったお土産の柚子の餅を放り投げて泣いた。

命尽きるまでそれを繰り返した。

心の中では羨ましくしか思わなかったが、
どうしたって「自分も家族で遊びに行きたい」なんて、身体を酷使する親に向っていえるはずがない。

結果的にはあれだけ自分が家族を持って以来キャンプに出かけたのはどこかではその反動なのだろう。

二週間ほど前。
すると呼応するように息子が「どうせ行くならテントだよな。」
「そうそう、テントがいいね」と娘。


今後の予定もまるで立たない。

キャンプに行ったことに等しい。
行ったか行かなかったかより、あの会話が出来たことが、
それが自分達家族の、これまでやってきた、何百泊した財産だ。

知っている。
それを知っている。
知っているどころか沁み付いている。

本当に忙しそうだ。
知っている。
それを知っている。
何度も経験したのだから。

必須要件ではない。
そうではあるのだけど、できたら「家族」単位も活かしてほしい。

どういう理由か判らないが、
なぜかキャンプを家族で経験すると、特別な家族の「スイッチ」が入る。
今までなかったような。



無意識に「家族」を意識するからだと思う。
いや、もっといえば「家族であること」の確認作業になっていると思う。

家族が自ら率先して、同一の場所で、同一の事柄を一緒に体験していく、そんな作業はキャンプくらいしかない。

5日とか10日とか贅沢は言わない。
その1日にワクワクしたい。
その1日でワクワク出来るほど、ここまでキャンプをしてきたのが、我が家の誇れるものだ。