オマージュとしての中華そばではなく、本当に中華そばを名乗れる店は東京でも数えるほどになってしまったかもしれません。
なにをもってして中華そばというかは別にして、このインターフェイスが中華そばなんだろうという説得力のあるもの。
海苔、叉焼、支那竹の縦一配列の潔さ。縮れ麺の色気。郷愁のつゆ。
現代のマッチョな極ウマ系からみたら、ただのヤサオトコにしか見えないかもしれません。しかし表面には見えない骨太のエクスペリエンスが最後の一滴までを演出してくれます。背中で語る男の哀愁。
古書街と呼応するような昭和プレゼンス。
このプライスすら平成ではないのじゃないかと思わせるもの。
店内はワタシが初めて訪れた30年以上前と何も変わらず。
この麺の茹で上げ。必要かつ最低限のパフォーマンス。湯きりパフォーマンスとやらが滑稽に見えるほど。
神田の古書街を久しぶりに歩いて、馴染みがあった古書店が相当姿を消していました。
この伊狭もあるいは・・・