会社を辞めた今、一生同じ仕事をする、それはもう出来なくなった。同じ仕事といってもサラリーマンなら人事異動やら何なら、同じ仕事とはそもそもいえないかもしれない。
しかし世の中には、同じ場所で同じ仕事を長年勤める大先輩がいる。
それが神田神保町にある「さぶちゃん」。
ダレでも今や当たり前に使う「半ちゃんらーめん」はこの店から生まれた。
さぶちゃん=木下三郎さんがこの店を始めたのは昭和41年。つまり47年前。私が始めてこの店を訪れたのは31年前。
神保町、白山通りの路地、表通りには面していない。
完全に昭和の風景。
さぶちゃんは座っていた!
御歳75歳。相変わらずの巨体。
東京のラーメンの名店であったにもかかわらず、この場所を動くこともなければ広げることもない。
もしかしてこの暖簾は新しくしたかもしれないが、私が始めて見た31年前と印象は全く同じ。
ただあの頃は昼夜どの時間であっても行列が絶えなかった。
今でこそ「とみた」をはじめとするラーメン店の行列は当たり前になったけど、当時ラーメンで行列がで絶えない店というのは、このさぶちゃん、東池袋大勝軒、荻窪の丸福、春木屋、このくらいしかなかったと思う。
わずか8人のカウンターのみ。メニューもらーめんとちゃーはん、この二つによる組み合わせ以外なし。もちろん餃子などもなし。
ところで「半ちゃん」とは「半ちゃーはん」を短くしたのではなく、麻雀の「半荘」、つまり半分の意味であって「ちゃーはんの半分」と「らーめん」で「半ちゃんらーめん」。
食べたいものへの欲求、それに耐えうる胃袋の最大値、支払える最小金額、を高次元にバランスした「半ちゃんらーめん」はその気軽なネーミングとともにこれはもう「大発明」といっていい。
食に国民栄誉賞というのはないけれど、あげれるならあげたいぐらい。
それだけの国家的定番になったのことに異論を挟む人はいないだろう。
だって誰しも社会人ならぜったいに「半ちゃんらーめん」にはお世話になっているはずなんだから。
以前は確かに厨房にさぶちゃんが立っていた。そして息子さんがアシスタントとして接客をしていた。
しかし75歳のご高齢、今は毎日毎日仕事を見ていた息子さんが仕切る。
化学調味料を最初にほんの少しさじで入れるのは昭和のラーメンの証し。
スープを張り・・・
麺を茹で上げ・・・
今当たり前の「湯きり式のゆでざる」などという素人でもできるようなことは当然しない。平ざるで手際よく湯を切る。
そしてタイミングを見計らってちゃーはんを出す。
さぶちゃんはその一連の作業をじっと見守る。
口には出さないが、心の中で何かを言いたげな、その目が鋭い。
かん水の利いた黄色い麺。こぶやしょうがが香る鶏がらと豚がらの透明なスープ。
しっかり締まりながら弾力を残した肩チャーシュー。
コッテリ甘く炒り煮したチョコレート色のメンマ。
残念ながら今や作り置きになってしまったちゃーはん。
でも、これがさぶちゃんの図であり、全国津々浦々に存在する「半ちゃんらーめん」の原型はこれ。
やはりさぶちゃんは見ているだけでは気が済まず、勝手に身体が動いてしまう。
もちろん往年のあの威勢のいい動きはもうない。
でも、息子さんの「いいから!やんなくて!」の声に、「ああ、そうかい?」と余裕の表情をみせるさぶちゃんが妙に格好いい。
今日もきっと、店先の丸イスに座りながら生ぬるいアクエリアスをチョコチョコ飲んで、行きかう人を見守っていることだろう。
そんな、47年間の毎日毎日を東京神田で送る、さぶちゃんを心から尊敬する。